グーグルの無料化戦略を深読みする

日本人には想像しにくい聖書の言葉

自身について語るのは気恥ずかしいが、私は厳格なキリスト教*1だった。なぜ過去形かというと、新生児洗礼を受け中学のときには堅信まで受けているクセして、離婚してるし結婚中は不倫の経験まであるからだ。いまでは教会にもいってないので、みっともなくて信者だとはとてもいいがたい。*2 ただ、父がとても厳格なキリスト者で、高校までは素直に従っていたから、どう否定してもやはりキリスト者としての考え方が染みついている。「それがグーグルの無料化戦略と、おまえの聞きたくもない生い立ちとに何の関係があるんだ?」といわれそうだが、まぁ聞いて欲しい。

アーミッシュファンダメンタリストといわれる人たちもそうなんだけれど、本来のキリスト教って毎日が修行みたいなもんで、小さなころから断食もやらされるし、質素倹約を常とし、神の意志のもとに犠牲をいとわず善行を隠れておこなうのが良いとされている。*3日曜日は必ず教会に行き、できなかったことや犯した罪を懺悔して、神父さまの説教を聞く。幼い子どもたちにはミサが終わったあとにも日曜学校がありシスターに聖書の勉強を教わる。もちろん人にはいわないがクリスチャンネームも持っている。こういっちゃなんだが、普通の人が考えているイメージのいいキリスト教と違って、現実のキリスト教カトリック)はとても厳しく辛い宗教だ。*4

カトリックでは本来、現世での名誉、地位、財産などは無意味とされていて、神の意志以外のものに価値を見いださず、神の国に召されることを至上の喜びとする。だから、どう考えてもアナーキーだ。そんな強烈な価値観に晒されて幼年期を送った子どもは、必然的に学校では周囲から浮いてしまう。だからなんとかみんなにあわせて目立たないようにしなくちゃならないけれど、頭の中では常に神父さまの言葉が渦巻いている。友人としゃべりながらも、自分はどうあるべきかなんかを自問自答しているんだ。*5 ちょっとコワイだろ。でもこれってどんな宗教にもみられる側面だともいえる。

平均的な日本の家庭環境に比べたら、ちょっと異常なぐらいの生活だけど、欧米にはこんな家庭環境がザラにある。だから普通の日本人がコッポラの映画『地獄の黙示録』を観てストーリーが難解なのは、生活のなかにキリスト教という土壌がないからだともいえる。
で、だ。上記に書き連ねたような環境に育った私だからこそ、『ウェブ進化論』を読んでグーグルの考え方を知ったとき、スグに聖書の言葉が浮かんできた。それは「明日の糧を思い煩うなかれ。空の鳥を観よ。蒔かず刈らず、神に生かされている」という一節だ。

やっと本題

いつも参考にさせてもらっているアルファブロガーである分裂勘違い君劇場Web2.0は自殺し、ゾンビーになって徘徊するから、またもや引用させていただくと...*6

独占によるうまみは、富1.0などより、Yahoo、Google楽天Amazonといった現代のIT企業のほうが巨大なのだ。 ・・・中略・・・ なぜなら、ITビジネスにおける独占は、人類がいままで経験したことのない爆発的な富の噴出源となるような、異質の独占となるからだ。

とある。

この「異質な独占」はサービスを無料で一般開放することでカテゴリーキラーとして君臨し、その後の成長した市場を一挙に独占する手法だ。それはまるで競争相手が降りるまでベットし続けるギャンブラーにも似た行為であり、たしかに投資家の狙いはその通りかもしれない。だけど検索エンジンとサイト評価のアルゴリズムを考え出した当時、学生だった2人のGoogle創始者はそう考えていないかもしれない。....なぜなら「世界政府みたいなものが、もしあったとするなら...」というその前提を口にすること自体に、私は隠された意図を感じずにはいられないからだ。

「明日の糧を思い煩うなかれ。空の鳥を観よ。蒔かず刈らず、神に生かされている」という聖書の一節は、キリスト者にとって馴染みのあるポピュラーな一節ではあるが、同時にまた、とても解決しづらい難しい矛盾点を突きつけてくる。

現代に生きる私たちはどうしても「働かなければ食べていけないし、生活していけない」部分が、多少なりともある。聖書の言葉はもしかしたら真実なのかもしれないが、野生に生きる生き物たちのように、何もかもを自然任せ(神任せ)に生きられるワケではない。当然、雨風から身を守る家や身を飾る服も必要だし、妻子を養うための蓄えも持っていなければならない。だからこそすべてを放棄した神父さまが尊敬されるし、マザーテレサを支援する人々が集まるのである。そしてできることなら、キリスト者はそんな風に生きることができればと心から願っているんである。

イワン・イリイチの『シャドー・ワーク』にも指摘されているけれど、日々の小さな雑務、食事の用意やワイシャツの洗濯、子守り、親切心や暖かい気持ちからする老人の世話、自宅前の掃除といった、本来は仕事じゃなかったものをビジネスにし、産業化することで近代社会経済はGDP成長率を伸ばしてきた。また、本来ならば人がモノを購買するときの意思って、個人の頭の中や心の中に生じる自然な欲求のはずなのに、『広告』というものが無理矢理それをマスの力を利用して増幅し、強化させ、新たな欲求を生みだしている。広告代理店にいわせれば「新しい市場を創造している」んだろうけど、スエーデンの中学生教科書『あなた自身の社会』を著したメンバーにいわせれば、広告によって不必要なまでの所有欲を煽られているってことにもなる。ところがGoogleが企業として利益を得ている部分の『広告』は、マスではなく個人が知りたい情報へのアプローチとして生まれる結果への「アドセンスやアドワード広告」が中心になっている。そしてその他、諸々のサービスはすべて無料だ。これからも無料もしくは無料に近い低価格サービスを次々と発表していくだろう。

所有権と紛争

『広告』という業態だけを考えていただいても理解できるだろうが、できあがってしまったシステムは「所有権」で守られている。つまり権利なんだけど、その権利は誰のモノかといえば、個人には帰属していないはずだ。なのにある特定の人間がそれを、さも当然のように権利を主張して、そこから利益を得ている。だからこそ、権利は常に紛争を生み出す。

アフリカがいつまでも途上国なのは、いつまでも所有権争いが絶えないからだ。お金になる地下資源、石油や宝石はもともと誰のモノでもない。アフリカ人は基本的に「所有権はいつ、誰に移ってもおかしくない」と考えている部分がある。蜜を溜め込んでいるハチの巣、木になっている熟した果物は発見者、持ち帰った者に権利がある。彼らはキリスト教に無理矢理改宗させられているだけで、土着の宗教観を完全に捨てたわけではない。だからこそアフリカ系移民が多いアメリカは停電が起こっただけで、暴動とともにお店が襲撃される。*7

私がいいたいことが少しはご理解いただけただろうか? 紛争は所有権が「ある特定の個人が独占している」から発生する。ならばすべてが無料なら紛争は発生しようがない。世界政府が想像できているグーグルは、本気でさまざまなサービスを無料化していくはずだ。そういう意味から考えれば、ある種の確信犯だといえる。そしてこの確信犯はかなり手強い。なにせ自分が正義だと信じ切っているからね。また宗教的な信念に基づいているからこそ「狂気の力」を発揮し続ける。もしかすると、あわてふためく資本家たちはグーグルに怯え、ブラックマンデーを再来させるかもしれない。そのときの犠牲を想像するとかなり怖いんじゃないだろうか。この個人的な深読みが杞憂に終わることを祈るばかりである。

追記: 誤解しないでね

ここまで読んで、私のことを素晴らしい人格者だと思うのは大間違いだ。どちらかといえば反動が起きたクチだ。小さなころから聖書に親しみ、考え抜き、影響を受けているが、聖書の言葉通りに行動できたことなどほんの数えるほどだ。万引きしたこともあるし、ケンカに明け暮れていたときもある。左の頬を先に打たせこそするけれど、何倍にもしてお返ししていたんだからタチが悪い。
  

*1:カトリック/カテドラル派

*2:父の死に際して、神父さまに告解の秘蹟をしてもらうときはちょっと躊躇った

*3:できる、できないは別にしてだ

*4:厳し過ぎるからこそプロテスタントができたんだよん。ちなみにプロテスタントは牧師さま。世帯も許されるし、働くことも認められている

*5:もちろん夢のなかでも

*6:これができるのが嬉しくて「はてな」にブログを開設した

*7:オープンソースを支える3部作/第2部「ノウアスフィアの開墾」を参照してほしい